2009年11月 8日 (日)

男も家事(おもかじ)いっぱい

 奈良県に住むようになって、もう、かれこれ40年近くになる。結婚後も共働きを続けていたが、2年後に子どもが生まれ、最初は実家の母にみてもらっていたが、母が身体をこわしたために、今度は、お姑さんにみてもらうことになり、夫の実家のある奈良に転居してきたのがきっかけだ。

私が住んでいるのは,県内でも北部の、いわゆる新住民が多い奈良市西郊の住宅地だが、奈良県は南北に長く広がり、県内全域をみると、まだまだ男女の性別役割分担意識が根強く残っている地域も多い。女性の就業率が全国一低いのも、そんなあらわれのひとつかもしれない。私が奈良に来たころから、このことは問題視されていたが、近年、またまた、奈良県として、あまり自慢できない“全国一”の数字が脚光を浴びた。ひとつは、男性の帰宅時間が全国一遅いことと、もうひとつは、女性の家事関連時間が全国一長いということだ。帰宅時間の遅さは、県外就業率が高いため、通勤にj時間がかかることが多分に影響していると思われる。その結果、家事に関わる時間が少なくなり、女性の家事時間がその分、長くならざるをえないということなのだろう。

このため、奈良県男女共同参画県民会議では、「男も家事(おもかじ)いっぱい」と名づけて、男性にもっと、家事や育児に協力してもらうための啓発活動を続けている。今年度は、その一環で、「男の家事フォトコンテスト」を実施。男性が家事に取り組む姿を家族が撮った写真を募集したところ、44名から62点の応募があった。その中から10点が入賞作品に選ばれ、その入賞者の表彰式が、橿原市内のショッピングモールで行われた。私も県民会議の会長として、表彰状を渡す役目を頼まれて出席した。

会場には、入賞した作品がパネルで展示されていた。「男も家事(おもかじ)最優秀賞」に選ばれたのは、休日の朝、幼い娘と一緒に、洗濯物を干す父と子のツーショット。次点の優秀賞も、洗濯関連だが、こちらは、やや年配の父親が茶の間で、テレビを見ながら洗濯物をたたむ後ろ姿を撮っている。タイトルは「一日の終わりに…」で、「これを終えないと、明日は来ません…」というメッセージが添えられていた。ほかにも、赤ちゃんの入浴やおむつ替えを手伝う若いパパの姿、台所でイカをさばくお父さんなど、日常のさりげない一場面を撮ったほほえましい写真が、来場者の共感を呼んでいた。表彰式には、撮影者の奥さんが出席した人も会ったが、被写体になった父親本人が、子供連れで表彰状を受け取る姿も目立ち、一昔前の、”男子厨房に入らず”といわれた時代には、およそ考えられなかった、ごく自然に家庭の中で、夫婦が家事を分担しあっている様子がうかがえ、共働きの草分け世代としてはうれしく、また、ちょっぴり、うらやましい光景だった。

 ちなみに、奈良県の男性の家事関連時間は、1日に36分らしい。一方、女性は4時間14分。まだまだその差はあまりにも大きい。男性の家事時間を、せめて、あと15分増やそうというのが、「男も家事(おもかじ)いっぱい」事業の狙いだが、さて、その成果のほどは?

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2009年11月 4日 (水)

素敵な道楽

 夫婦rとも歴史学者として知られる、脇田修・晴子さんご夫妻から、連名のうれしいお便りをいただいた。「関西楽劇フェスティバル協議会」の催しの一環で、今月21日に、京都観世会館で、能狂言・新作能の会を開くことになり、夫婦・親子で共演するので、ぜひ、観にきてほしいという案内状である。

脇田修先生と初めてお会いしたのは、今から三十年数年前のことだ。当時、先生は大阪大学で教えておられ、「男の手料理」の取材で、京都府向日市のご自宅にうかがったのだ。そのころから、学者のおしどり夫婦として有名だった。この日は、奥様の晴子さんは仕事に出かけてお留守だったが、修先生は、気軽に台所に立ち、かいがいしいエプロン姿で、奥様が学会や出張で留守のときに、よく作り、子どもたちにも好評だという親子どんぶりの腕前を披露してくださった。ちょっぴり甘めのおやじの味。まだ小学生だった息子さんも一緒にカメラに収まっていただきき、父子ツーショットの写真が紙面を飾ったことを覚えている。

その後、私が大阪府立文化情報センターの所長をしていたときに、ちょうど、修先生が、すぐ近くの大阪市立歴史博物館の館長をされておられために、久しぶりに再会し、講座の講師も何度かお願いしたほか、晴子夫人に、情報誌「道・楽・人」の巻頭エッセィ、「道楽メッセージ」の原稿をお願いするため、何十年ぶりかでご自宅にもうかがった。晴子夫人は、6歳のころから能楽を習っていて、かなりの腕前と聞いていたので、巻頭エッセーに、ぜひ、その話を書いてほしいと思っていたのだが、いろいろ話をうかがううち、何と、奥様の感化で、修先生も、60歳を過ぎてから茂山千作さんに狂言を習い始め、たまに一緒に舞台に立つこともあると聞いてびっくりした。また。ご長男もやはり、狂言を習っておられるということで、原稿の中でも、そのことにも触れていただいた。ご夫妻の共演する舞台は、その後、一度、京都観世会館で拝見させていただいたことがある。演目は「求塚」で、晴子さんがシテ方、修先生は幕間の狂言にそれぞれ出演されていた。そのときから、こんどはぜひ、親子共演を観たいと思っていたのだが、その念願が、ようやくかなうことになった。

今回は、修先生と息子の成さんが狂言で共演した後、晴子夫人の自作・自演による能楽「問わず語り」が上演される。晴子さんの創作能は、今回が三作目。鎌倉時代の末期、後深草院の女房であった後深草院二条の自伝をふまえた作品だという。第一作の「石見銀山」は、石見銀山の世界遺産登録のための文献調査を担当した晴子さんが、「石見銀」という江戸時代の謡を能楽にして、山の神、白銀の精などを登場させたものだという。第二作目の「生国魂」は、大阪の生国魂神社の依頼で作った作品で、古代、中世の人たちがいかにして神を祭ったかを再現している。いずれの作品も、これまでに何度か上演され、話題になっているだけに、第三作目がどんな作品かが楽しみだ。

「私ども夫婦も、もういい年で、こんな道楽も、これが最後、これが最後と言いながら、またまたという次第にて、誠にお恥ずかしいことながら、何とかやり遂げたいと思っております」と、案内状にあったが、70代になっても、夫婦、親子で一緒に楽しめる道楽を持っているなんて、素晴らしいことだ。まして、この年代の夫婦が、“婦唱夫随“で、共通の道楽を楽しむ姿は、大変珍しく、それだけに、カッコイイ!

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2009年10月26日 (月)

阿修羅のごとく…

興福寺の阿修羅像を初めて見たのは、まだ20代のころだった。その後、結婚し、縁あって、奈良に住むようになったが、いつでも行けるという安心感から、かえってお寺とは縁遠くなり、興福寺のそばはしょっちゅう通っているのに、なかなか再会の機会がないまま、長い年月が過ぎてしまった。でも、この秋、東京と九州の博物館で特別展示されていた阿修羅像が、久しぶりに里帰りをして展示されると聞いて、かけつけた。

阿修羅像を初めて見たとき、「何てきれいな仏さんだろう」と感激したことを覚えている。暗いお堂の中に、ひっそりと立っていた、八頭身のすらりとした体型と涼しげな目元。三面六臂という特殊な形なのに、それが少しも不自然でなく、いつまで見ていてもあきない神秘的な美しさだった。

今回の展示は、本尊の釈迦如来など計8体の仏像を仮金堂の中にずらりと並べ、、ガラス越しでなく、直接、間近から見られるように配置されていた。阿修羅像は正面向かって左手に配置されていたが、ライトアップのせいか、全体が透明感のある乳白色に輝いていて、以前、見たときよりも、神々しく見えた。「立ち止まらないで、前に進んでください」という、会場の案内係の方が繰り返し注意していたが、阿修羅像の前に来ると、みんな、足が止まってしまう。手を合わせて拝んでいる人もいた。阿修羅はもともと軍神で、その表情は、内に秘めた怒りを表現しているというが、正面を向いている顔は、どう見ても穏やかで、静かに微笑んでいるようにさえ見える。白血病で早逝した、女優の夏目雅子さんに似ているという人があると、前に聞いたことがある。確かに、そういわれてみると、似ているように見えてくる。

そんな先入観もあって、天平時代の傑作である阿修羅像は、てっきり女性像とばかり思いこんでいた。だが、今回、特別展示の説明書を読んで、阿修羅が本来は戦いの神であり、すらりとした体型は少年像をあらわしていることを教えられた。阿修羅が女性だと思い込んでいた原因のひとつは、昔、テレビで見た、向田邦子さんのドラマ「阿修羅のごとく」の影響が大きい。向田さんの作品は、どれも好きだが、この作品は、とくに印象深かった。実家の父親に愛人がいることがわかり、色めきたつ4姉妹。母のために何とかその関係を清算させようと、集まって善後策を相談するのだがが、表向きの顔とは別に、4姉妹それぞれが、夫や恋人との間にのっぴきならない問題を抱えていた。そんな女たちの心の奥に潜む猜疑心や妬み、怒りなどの葛藤が、ちょっとしたしぐさや会話の中にさりげなくにじみ出て、いかにも向田さんらしいドラマだった。

どうやら、「阿修羅のごとく」というタイトルから、阿修羅像=女のこわさというイメージが、私の中にインプットされていたようだ。先日、阿修羅像に久しぶりにお再会できたことで、向田さんのドラマを思い出し、この機会に原作を読んでみたいなと思っていたら、たまたま、その数日後、本屋で、別の本を探している最中に、同じ文庫で、向田さんの「阿修羅のごとく」が出ているのが目に留まった。お目当ての本は、結局、品切れで手に入らなかったのだが、何という不思議な巡り合わせだろう。これもきっと、阿修羅像の引き合わせに違いない。

この作品がドラマ化された2年後の1981年に、向田さんは、航空機事故で亡くなっている。人の運命のはかなさを思いながら、いま、「阿修羅のごとく」の原作を、少しづつ読んでいる。ドラマを見たときからすでに三十年。私自身が、女として年を重ねてきたせいか、作品の中のさりげない会話の受け取り方も、昔とは微妙に違ってきた。おそらく、私自身が年を重ね、女のこわさの裏にひそむかわいらしさや哀しさへの共感を抱ける年代になったせいなのだろう。

「阿修羅のごとく」のドラマの平均視聴率は12,4%だったという。本の巻末に、ドラマ化されたころの裏話が書かれているが、その最後は、こうしめくくられていた。

<「阿修羅のごとく」のタイトルロールに流れた、天平時代の傑作のひとつ、興福寺所蔵の阿修羅像は、身長153センチ。向田邦子とほぼ同じ身長である>

 これも、不思議な巡り合わせといえるだろう。

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2009年10月21日 (水)

仮免の結果は?

 先日、「60の手習い」と題して、新聞社時代の後輩が、60歳を超えてから自動車教習所に通い始めた話を書いたところ、いろんな人から、いろんな反響があった。後輩記者本人からは、「“60をとうに超えた“とは失礼な…」という、年齢の表現に関するクレームが届いた。言われてみれば、確かに、彼女は、昨年11月に、60歳になったばかりである。私としては、定年を迎えて間もないというわけではないということを強調したかっただけなのだが、つい、筆が走りすぎたようだ。この点に関しては、謙虚に反省して、訂正したい。

彼女を知っている人たちからは、「まさか、あの○○さんが…」「信じられない!」という驚きの声が寄せられた。後輩記者としか書いていなかったのに、なぜか、みんな、だれのことかすぐわかったようで、本人に、直接、真偽のほどを確かめた人もいたようだ。先週、久しぶりに昔の仲間たちが集まった席でも、その話で結構盛り上がった。何と、彼女は、クルマの運転のほかにも、フランス語の勉強を始めたとかで、クルマの仮免の試験と、フランス語の進級の試験が重なって大変だと、しきりにこぼしていた。

その仮免の試験の結果がどうなったかを、私に尋ねてきた人がいる。私のブログのお師匠さんで、獣医師の石井万寿美さんだ。石井先生の場合は、“40の手習い“で、走ることと、英語、フランス語、イタリア語と、毎年、海外旅行に行くたびに、習得を目指す語学の数が増えているのはすごいと思う。実は、石井先生も、先日のジャーナリストの仲間たちの集まりに参加されたため、後輩記者が、間もなく、仮免の試験を受ける事を聞いて、結果を心配して聞いてこられたのだろう。

考えてみれば、ブログで最初に紹介した者として、やはり、その後のことを、報告しておかねばなるまいと、昨日、後輩記者にメールで結果を確かめたところ、早速、今朝、返信のメールが届いた。ご安心ください。後輩記者は、無事に、仮免の試験に合格いたしました。それも、学科は満点で、実技のほうは、彼女以外はみんな若い人ばかり計5人が受けた中で3人が落ちて2人だけ通った中に彼女がいたという。これは、彼女自身の言葉なので、本当かどうかわからないが、もし、その通りだったとすれば、よく頑張ったと、ほめてあげたい。

今週からは、いよいよ、路上教習だ。私が免許を取ったときは、夜間のクラスでいつも実技の指導を受けていたので、昼間の明るい道を走るのはかえって怖かったことを覚えている。彼女も、こえから、何度か、ヒヤリ、ハットの経験をしながら、少しづつ上達していくのだろう。先日の飲み会で、「私、スピードを出すほうが走りやすいの」という彼女の言葉に、みんな、思わず、のけぞってしまぅた。免許とりたての人が、スピード狂だったとしたら、これほど怖いことはない。最初のうちは、早く走るつもりはなくても、スピードメーターを診る余裕がなく、坂道などで知らないうちにスピードが出すぎていて、怖い思いをしたことが何度かある。

実は、彼女が路上教習で走る道の近くに、もう一人、やはり飲み仲間で、こちらはまだ現役の女性記者の自宅がある。「当分、家の外に出るときは、十分気をつけるように言っておいてください」と、仮免記者からのメールは結ばれていた。多分、もうひとりの後輩記者も、このブログを読んでくれると思うので、どうか、道を歩くときは、暴走してくるクルマがいないかどうか、前後左右にくれぐれも気をつけて。いや、当分、用事のないときは、外に出ないほうがいいかもしれない。

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2009年10月18日 (日)

読書の秋というけれど…

 「ところで、所長の部屋の荷物は、もう片付いたのですか?」

 文化情報センターに勤めていた頃、一緒に仕事をしていた、大阪府の女性職員と、先日、久しぶりに会ってお昼を食べたとき、いきなり、こう尋ねられて、返事に詰まった。以前、このブログで、仕事をやめて、時間ができたはずなのに、部屋がなかなか片付かないという悩みをこぼしたのを覚えていて、その後の顛末を聞きたかったのだろう。

荷物と言うのは、文化情報センターをやめたときに、職場から家に送った書類や本のことだが、あのときのブログでも書いたように、実は、新聞社を退職したときに、職場においてあった書類や本を、ダンボール箱に詰めて家に送ったものが、まだ、箱詰めのま残っていて、そこにさらに、文化情報センター時代の荷物が加わった結果、部屋はもう足の踏み場がない状態になってしまったのだ。でも、あれからすでに半年がたつ。家にいる時間は、以前よりかなり増えており、本当なら、部屋はもう、かなり片付いていなければいけないのだが、これがなぜか、ほとんど手つかずのまま、というよりは、ますますひどい状態になっているというのが、偽らざる真実である。

 なぜ、そんなことになるのか、私にもよくわからない。ひとつ、言えることは、私の辞書には、どうやら、「整理整頓」ということばがないらしいということだ。 まずます、ひどくなった理由として考えられるのは、時々、必要があって、本や資料を探すため、ダンボール箱の中身がどんどんぐじゃぐじゃになっていることに加えて、毎週のように新しい本や資料が、新たに“荷物“として加わっているせいだ。

 会議の資料などが増えるのは仕方ないとして、本は新たに買わなければ増えないわけだが、これがまた、すこぶる難しい。というのも、毎週、1,2回、必ず、天満橋にある関西消費者協会の事務所に行くのだが、その近くに、大きな本屋さんが2軒あって、必ず、どちらかに立ち寄るため、そのたびに、本が増えてしまう。できるだけ、目的の本だけ買って出るようにしているのだが、本屋の陰謀なのか、単に私の意志が弱いためなのか(多分、その両方だろうが)、ついつい、余計な本まで買ってしまう。

 先日も、ブログのお師匠さんである、獣医師の石井万寿美先生ガ、「ブログをやっている人は、ぜひ、この本は読むべき」と勧めてくれた、勝間和代さんの「目立つ力―インターネットで人生を変える方法」を、早速、本屋に買いに行ったら、その横に置いてあった、同じ小学館の新書シリーズで、田中優子さんの「未来のための江戸学―この国のカタチをどう作るのか」と、小池百合子さんの「議員と官僚は使いよう」が目に留まり、ついつい、3冊まとめて買ってしまった。いずれも、著者が女性であり、勝間さんの本も以前からよく読んでいるし、田中さんは、「こころ塾」でお会いして以来、ファンになった美人で頭のいい学者として尊敬している。はたまた、小池さんは、もしかしたら、日本初の女性の首相になっていたかもしれない人であり、本の題名も面白そうで、ついついとびついてしまったのだ。

 このようにして,どんどん増える一方の本の山を、どうすべきか。震災で、書棚が倒れて、本の下敷きになって亡くなった人のニュースを聞くたび、いくら本が好きでも、そんな死に方だけはしたくないと思うが、このままでは、震災でなくても、いつか、本の山に埋もれて、窒息死するのではないかと心配になる。

先日、気のおけない仲間たちと飲む機会があり、本がたまって困っている話から、亡き父がかつて愛読していた司馬遼太郎の本もたくさんあって、定年後に読もうと置いてあるという話をしたら、「そのトシになったら、もう、司馬遼太郎の本は、読む必要がないやろう」と言われてしまった。たしかに、いつか読もうと大切に置いてある本の中には、読むシュンを過ぎてしまった本もあるし、古い全集物などは、紙が黄色くなっていたり、活字が小さかったりして、とてもじゃないが、暇が出来ても、読む気になれないものもある。それでも、やはり、本はなかなか捨てられない。

本がどんどんたまるのに、ゆっくり読書する時間が取れないのも、これまた、悩みのタネだ。かつては、通勤の車中が私の貴重な読書の時間だったが、毎日出勤しなくなったので、その楽しみがなくなり、かといって、家でゆっくり座って本を読む習慣がないため、イスに座って読んでいるとどうも落ち着かない。定年後の人たちは、みんな。どこで、どのように、本を読んでいるのだろうか。

読書の秋というのに、私の悩みは尽きない。

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2009年10月10日 (土)

メール騒動

 この“事件“について、書くべきか。書かざるべきか、かなり迷ったが、やはり、どうしても、書いておく必要があると思ったので、一日遅れではあるが、橋下知事のメール騒動について、私なりに思ったことを書くことにした。

 8日に開かれた府議会で、水道部の幹部職員の答弁内容に腹を立てた橋下大阪府知事が、公金の使い方に対する意識を改めてほしいと促すメールを全職員に送ったところ、府内の保健所に勤める40代の女子職員が、「みんな、(仕事が)忙しいのだから、愚痴をこぼすなら、個人のブログでやってくれ」といった主旨の返信をしたのがそもそもの発端だったようだ。二人のやり取りはどんどん、エスカレートして、ついに、上司に対する部下の態度として許せないと怒った知事が、その女子職員と職場の上司の処分に踏み切った。

翌朝のテレビ番組で、「こんな反抗的な部下は、即刻クビにすべきだ」などと、知事の肩を持つ発言が相次いだのには驚いた。さすが、知事の人気はすごい。確かに、この女子職員の発言は、いささかおとなげないし、目上(年齢は下?)の人に対する態度としては失礼にあたるとして、とがめられても仕方ないだろう。でも、知事も知事だ。府議会での水道部の幹部職員の発言に対して腹を立てたそのうっぷんを、ほかの職員にぶつけることはないだろう。それも、知事の見解自体がかなり一方的であり、こんな問題で、公金の使い方に対する公務員としての姿勢を問われてはかなわないと思った職員も少なくないはずだ。でも、生活がかかっている男性職員の場合は、知事に対して、そんな反抗的な態度をあからさまにとるだけの度胸も勇気もないだろうし、まともにけんかする気にもなれなかったというのが本当のところではないかという気がする。

ことの発端は、大阪府の水源計画の検討にあたり、水需要予測が大幅に下降修正されたことから、10年に一度程度起こる渇水等を考慮しても、既得の水源で十分対応が可能であるという判断のもと、紀ノ川大堰の計画から、大阪府が撤退することになったことにある。その経緯について、水道部の幹部職員がおこなった答弁の内容に、どうも知事が激怒したようだ。「いいかげんな水需要予測をもとに、ダム計画を進めてきたことで、総事業費1028億円のうち、府がすでに380億円の負担をしていたのがムダになるわけで、それについて、まるで他人事のような答弁で、けしからん」。幹部職員お答弁を聞いていたわけではないので、わからないが、多分、知事の立腹の原因はこの辺りにあると思われる。たしかに、これだけ聞けば、多くの府民も、そうだよなと、知事に共鳴し、公務員はけしからんと思うに違いない。

でも、よく考えてみてほしい。ダムの建設工事にゴーサインを出したのは、一体だれなのか。それは、20何年か前の大阪府の知事であり、もちろん、府議会でそれが承認されたわけだが、府の職員にそのことの責任を問うのはそもそも間違っている。しかも、当時の大阪府の人口と水需要、府内の市町村の府水の利用状況などを考慮した、専門家による水需要予測をふまえて、ダムは必要と判断されたのだ。その後、大阪の地盤沈下が急速に進み、新たな企業の誘致は進まず、工業用水の需要は頭打ちとなり、一方、急激な少子高齢化の進行や節水タイプの洗濯機や水洗トイレの普及などで、この20年間の間に、水の使用量は大幅に減ってきた。このため、将来の水需要を考えた場合、既存の水道設備で十分、間に合い、当時は将来の水需要や治水対策のために必要とされた紀ノ川席の計画は、もはや必要でないと判断せざるをえなくなった。これまでに投じたお金はもつたいないが、もし、このまま、計画を進めれば、将来にわたって、毎年、2億円の維持管理費がさらに必要となる。赤字の大阪府として、とてもこれ以上、無駄な税金は使えない。その苦渋の選択が、撤退の決断であり、そのことは、知事もよく承知しているはずだ。

実は、私も、大阪府の水道事業の外部評価委員のひとりとして、水需要予測の変遷については、大きな関心を持ってきた。確かに、これまでに出費した380億円ものお金がムダになることについては、なぜ、もっと早く撤退を決断できなかったのだろうかという思いはある。でも、このままずるずると工事を続けていっても、無用の長物のために、毎年、多額な出費を続けていかねばならないことを思うと、やむをえない決断であろうと考える。この難しい決断について、もし、幹部職員の言葉が足りなかったのなら、、その足りない部分を補い、府民の理解を求めるのが、“上司“としての知事の務めではないだろうか。

水道事業に関しては、大阪府と大阪市との統合計画が動き出していて、今後、大阪市の案をもとに、水道事業の統合が進められることが大筋で決まっている。だが、この夏、知事が、統合に先立って、大阪府が単独で水道料金を先行値下げすると発表した。しかし、府だけが先に値下げされては困ると、市側の猛反対にあい、1ヶ月もたたずに、これを撤回。どちらも、知事の独断専行で行われたため、そのたびに、水道部の職員は振り回され、議会や市町村への対応に追われてきた。そんな様子を見てきただけに、今回の知事の言動に対しては、首をかしげざるをえない。

女子職員の発言内容について、知事は、「民間企業ではとても考えられないこと」と、怒りをあらわにしているが、民間企業で、全社員に、いちいち、自分の思いを訴えるメールを送りつける社長など、おそらくいないだろう。

知事は、府の職員の“上司“的立場にあたるけれど、公務員として、日々、仕事に追われている職員たちが仕えねばならない相手は、知事ではなく、大阪府民である。公務中に送られてくるメールへの返信より、公務を大事にするのは当たり前であり、「愚痴のメールなら、個人のブログでやってくれ」と言った女子職員の言葉は決して間違ってはいないと思う。

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2009年10月 7日 (水)

宇宙と大地

 人類で最初に宇宙へ行ったのは、旧ソ連の宇宙飛行士、ガガーリン少佐だ。米ソの間で冷戦が続いていた頃、どちらが先に有人飛行を成功させるかと、注目されていたが、先鞭をつけたのはソ連だった。1961年のことである。「地球は青かった」と、宇宙から伝えてきた彼のことばは一躍、有名になった。このとき、ガガーリンは、まだ27歳で、搭乗した時は中尉だったが、飛行中に少佐になったと伝えられている。彼は宇宙でこれを聞いて大喜びしたというが、実は、彼が宇宙から無事に帰れないのではないかとひそかに考えていた国の特別な計らいだったという説もある。

“青い地球“のイメージは、以来、すっかり定着したが、これは、地球を取り囲む空気の層がちょうど、薄いベールのように青く見えるためらしい。1990年に日ソ共同宇宙飛行計画で、日本人で初めて宇宙に行ったジャーナリストの秋山豊寛さんも、宇宙得特派員として、宇宙から、「やっぱり、地球は青かった」と、その印象を伝えている。

もっとも、宇宙からの第一声は、「エッ、これ本番ですか」だったとか。いかにもテビ局の人らしい。「本当は、もっとかっこいいせりふを用意していたんだけど、いきなり中継が始まったのと、あらかじめ考えていたことばが、実際とかなり違っていたため使えなかったのだと、先日、「読売こころ塾」でお会いしたとき、ご本人からうかがった。本当は、「宇宙は混沌としている」と言いたかったのだそうだが、宇宙は混沌とした感じではなかったという。青い色の色合いについても、インディゴブルーといいたかったらしいが、おじさんが使うときざっぽく聞こえると思ってやめたという。

たしかに、宇宙に行ったとき、秋山さんは48歳のおじさんだった。一般的な宇宙飛行士のイメージからいうと、かなりトシをとっているのではないかと思うが、そもそも、日ソ共同宇宙飛行計画は、当時、秋山さんが勤めていたTBSの開局40周年事業として進められたものらしく(さすが、テレビ局はお金持ち!)、宇宙特派員になる人を、社内公募で募ったところ、何十人もの応募があり、秋山さんは、最後の8人に絞った段階で一度落とされた。胃に潰瘍の痕があると言うのが不合格になった理由だった。ところが、残った若い社員たちも、最終的に全員落ちてしまう。精神力や身体的条件が合う人がいなかったのだ。困ったソ連側は、当時、TBSのロシア語通訳をしていた米原万理さんに「誰かいい人はいないだろうか」と相談。秋山さんと顔見知りだった米原さんが、「少しトシはとってるけど、アメリカでならした、タフで健康な男がいる」と推薦。敗者復活戦で、秋山さんが選ばれたのだという。

宇宙から帰還後、秋山さんは、53歳で突然、会社を退職。福島県の阿武隈山地に家を建てて移り住み、無農薬、有機栽培で米や野菜、シイタケの栽培などをしながら、ジャーナリストとしての活動を続けておられる。転身の理由はいろいろあっようだが、その原点に、あの時、宇宙から見た、青いきれいな地球の姿があったという。

地球環境問題が深刻になっているいま、地球がいつまでも、青いきれいな姿でいられるよう、できるだけ負荷をかけない生き方をしたい。そのために、自分にできることは何かと考えた末に行き着いたのが現在の“農のあるくらし“だったという。

かっこいいが、かなり、贅沢な生き方だ。「こころ塾」の準備のために、何冊か秋山さんの本を読んだが、農業生活のことを書いた本には、奥さんの話が全く出てこないので尋ねると、「彼女はシティギャルなので、田舎の人間関係がわずらわしいと、東京に残っています」とのことだった。つまり、秋山さんは、年に8ヶ月、単身赴任で福島に行っているようなものだ。「テレビ局時代に、海外での単身暮らしに慣れているので、料理、洗濯などの家事は全部できるし、お互い、この年齢になれば、離れて暮らすのもまたいいもの」と、秋山さんは言う。確かに、「亭主達者で留守がいい」と、昔から言われている。おまけに、無農薬の米や野菜を、年中、産地直送で送ってもらえるのだから、奥さんにすれば、これほど幸せなことはない。

壮大な宇宙と大地の両方に夢をかけて生きる男は、やっぱり、自立してなきゃかっこ悪い。「でも、つまりは、奥様がついてきてくれなかったということですよね」と、つい、本番で言ってしまった。秋山さん、ごめんなさい。自立した男を相方に持った奥様が、ちょっぴりうらやましかったのかもね。

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2009年10月 1日 (木)

はなちゃんの会

 文化情報センターが廃止になって、ちょうど半年になる。それを記念してというわけでもないのだが、元の職場の仲間たちが、久しぶりに集まろうということになり、昨夜、「はなちゃんとその仲間たち」の会が開かれた。

“はなちゃん“なんていうと、かわいい女の子の名前みたいだが、これは、8月7日生まれの私の愛称である。8と7で、はなちゃんというわけだ。文化情報センター時代、2ヶ月に1回、文情サロンと名づけて、文化・生涯学習に関わる人たちに、交流の場を提供していたことは、以前、このブログで書いたが、その文情サロンのない月に、「文情さくら会」と名づけた職場の懇親会を開いていた。(「さくら」の名の由来は、第1回目の会場が、たまたま「さくら水産」という名前の店だったというだけの理由だ) はなちゃんは、そのさくら会の顧問であり、文化情報センターが廃止になる最後のさくら会の席上で、これからも、年に1度ぐらい、みんなで集まろうという約束を交わしたのである。

とはいえ、こういう会は、世話をしてくれる人がいなければ、実現しない。その意味で、約束を忘れずに、このような会を開いてくれた幹事の田辺さんと松井さん、中野さん、そして、わざわざ、時間をさいて集まってくれた元の職場の仲間たちに、心から感謝をささげたい。

この日、集まったのは総勢11人。久しぶりの同窓会?のように、感激の対面シーンが見られるかと思ったが、いざ、顔を合わせてみれば、何だか、ついさっきまで、同じ職場にいた同僚が、アフター5にまた集まったという感じで、すぐに以前のような雰囲気で、冗談を言い合い、楽しく飲み、かつ食べるにぎやかな集いが始まった。

文化情報センター時代に、毎年11月に開いていた「公開講座フエスタ」や、府内の市町村とネットワークを組んで開いていた広域連携講座「おおさかふみんネット」などのネットワーク事業が、府の文化課によって受け継がれ、今年も開かれることを聞いて、ほっとすると同時に、うれしかった。継続は力なりと言うけれど、どちらも10年以上、文化情報センターが核となって続けてきた事業であり、センターが廃止になるときも、これだけは何とか続けてほしいと願っていた。それだけに、できたてのパンフレットやチラシを見せてもらい、みんなで、良かったねと喜び合った。

ただ、センターの廃止によって、あわてて再就職先を探したために、新しい職場とミスマッチで、結局、やめることになった人、公立図書館に就職したものの、そこも、市場化テストで来春には民間に委託されることになり、またしても新しい職場を探さねばならない人など、センター廃止の余波は、まだまだ続いているようだ。でも、それぞれ、いろんな問題を抱えながらも、みんな、新しい道を求めて、懸命に生きている。何の力にもなってあげられないことを申し訳ないと思いながら、一人ひとりの近況報告を聞いていた。もう、所長ではないけれど、はなちゃんは、いつまでもみんなのお姉さん、イヤ、お母さんのつもりなので、悩みやぐちの聞き役ぐらいはいつでも引き受けるからね。私のブログを読んでくれている人も多いようなので、これからも、ブログを通じて、みんなに心からのエールを送りたい。

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2009年9月25日 (金)

相方さん

 イチローが弓子夫人のことを、「相方」という呼び方をしている話を、ブログで書いたら、後輩記者から、「たしかにいい呼び方だけど、他人の配偶者のことを言う時は、“相方さん”では、漫才のコンビみたいで、ちょっと使いにくい」というコメントが寄せられた。たしかに…。「お連れ合い」とか、「夫さん」などと苦しまぎれにいう人もあるが、これももうひとつだ。だれか、いい呼び方があれば、教えてほしいものだ。

相方といえば、時の人、鳩山新首相の“相方さん“も、今、海の向こうのアメリカで、なかなかいいパートナーぶりを発揮しているようだ。週刊誌で、略奪婚などと書かれても、少しも臆する風なく、ふたり仲良く手をつないで歩く姿のツーショットが新聞紙上を飾るなど、当選前から、このカップルは注目されていた 幸夫人は、夫より6歳年上の姉さん女房のようだが、昨日、視察した日本人学校の子どもたちの間でも大人気で、テレビで夫人の印象を聞かれた子どものひとりが、「すごく素敵な人でした。若い頃はすごい美人だったに違いない」と、本人としては最大級の賛辞を呈していたのがほほえましかった。幸夫人のゴールドの勝負服も、普通の人にはなかなか着こなせない色だが、彼女にはよく似合って、ぴたりと決まっていた。

底抜けに明るい感じのファ-ストレディは、これまでの日本の歴代首相夫人とは、いささかタイプが違うが、お似合いのカップルだと思う。「妻がいなかったら、政治家にはなっていなかっただろう」と、鳩山首相が発言しているのも、さもありなんと思わせる。きょう、たまたま、買った週刊誌で、林真理子さんが、幸夫人のことを書いていたが、そのエッセイの中で、ヒラリー・クリントン女史が大統領夫人だったころの、面白いエピソードを紹介していた。

ある日、クリントン大統領と夫人が地方に遊説に出かけ、ヒラリー夫人の故郷の町を通りかかった時、ガソリンスタンドの経営者らしき男性が、クリントン夫人に親しげに手を振った。「昔のボーイフレンドよ」と、夫人も笑顔で手を振るのを見て、やや嫉妬を覚えたクリントン大統領が、皮肉まじりにこう言った。

「へえ、良かったね。もし、ぼくと結婚していなかったら、君はこんな田舎町でガソリンスタンドをやっている男の妻になっていたんだね」。すると、ヒラリー夫人は、すかさずこう答えたという。「何言ってんのよ、あなた。彼が、もし私と結婚していたら、彼が大統領になっていたわよ!」。

真偽のほどはわからないが、女性なら、だれでも、思わずニヤリとしたくなる話だ。偉い男と結婚するのは、運のいい女というわけではなく、本当は、妻のおかげで偉くなれた、運のいい男も多いのだろう。クリントン夫人の場合は、あるときから、相手に注ぐエネルギーを、自分に向けるようになったのだろうと、林さんはみている。

どちらにしても、いい相方にめぐり合えるかどうかで、人生が決まるとすれば、“婚活”もあだおろそかには出来ない。もう手遅れの人は仕方ないとして、これから相手を探す人は、エネルギーの注ぎがいのある相手を、ぜひ、選んでほしい。

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2009年9月24日 (木)

aikata

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