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2014年7月19日 (土)

原信子記念館

退職したら、やりたいと思っていたことのひとつに、幼いころ、〝信子おばちゃん〝と呼んでいた、母の叔母さんにあたるオペラ歌手、原信子の生涯をたどって、自分の手でまとめてみたいという念願があった。信子おばちゃんが、っそんなに有名な人だということは、当時は全く知らなかったが、父がソ連に抑留されている間、東京で随分お世話になった。当時、小石川にあった家は、当時は珍しい洋館で、芝生の広い庭は薔薇の生け垣に囲まれていて、まるで童話にで出てくるお城のように見えたのを覚えている。

その後、私は日本に戻ってきた父の転勤で、四国の松山を経て、大阪に住むことになり、就職してからはめったに東京に行くこともないまま、信子おばちゃんは85歳で亡くなった。東京の青山で営まれた葬儀に母と2人で出席したのが最後のお別れになった。私が中学生のころ、ピアノを習いたいということを母から聞いて、稽古用に使っていたピアノを送ってくれたのが形見の品になっている。

東京音楽学校で声楽を学び、その後、三浦環の後任として帝国劇場歌劇部に入るが、解散後、原信子歌劇団を結成、浅草で大衆的なオペレッタを次々と上演、いわゆる(浅草オペラの一時代を築いた。だが、その後、本格オペラを学ぶために単身渡米し、その後、カナダを経由してイタリアで留学。日本人で初めてミラノ・スカラ座に所属。帰国後、日本で歌劇研究所を主宰シテオペラ運動に尽力したと伝えられている。

東京にいたころ、自宅でお弟子さんに声楽のレッスンをしている場面は何度か見たことがあり、ソプラノのよく通る歌声は記憶に残っている。普段の話し声も、歌声と同じように、よ見たく響く高い声だった。残念ながら、舞台姿は見たことがないが、葬儀会場の一角に、プッチーニの「蝶々夫人」に出演したときのステージ衣装の着物が飾られていて、「或る晴れた日に」の曲が流れていたことを覚えている。

母から聞いていた話では、イタリアで一度結婚していたそうで、その男性らしき人と二人で撮った写真が私の手元にある。信子おばちゃんのお墓は、富士霊園の中にあり、一度だけ、母とお参りしたことがある。見晴らしがいい高台にあり、周囲に花がたくさん植えられているいいお墓だった。親族が少なかったため、墓地の永代管理を母が引き受け、毎年、管理費を払ってきたが、その通帳を母から託されたため、今は私が引き継いでいる。

そんな縁もあって、大叔母の生涯を、ぜひ、きちんと調べてみたいとずっと思っていたのだが、断片的に資料を集めているだけで、日常の仕事に追われてなかなかはかどっていなかった。そんな折に、たまたまネットで、千葉県の九十九里浜に、「原信子私設記念館」があることを知ることができた。

山口昭二さんというかつて門弟だった方が、個人的に収集した資料や当時の新聞記事、大叔母の遺品などを展示しておられるようで、古いレコードで肉声も聴けるという。ネットの記事は少し前のもので、山口さんの年齢は83歳と書かれていたので、その後、どうなっているのか気になって、きょう、も息って電話をかけてみると、山口さんご本人が電話口に出られて、私が遠縁にあたる者だというよ、とても喜んでくださった。

少し時間ができたら、ぜひ一度訪ねて、山口さんのお話も聞いてみみたい。資料館には、時々、昔のお弟子さんやピアノを弾いていたという字とが訪ねてこられるという。そんな人たちの話から、〝信子おばちゃん〝の隠れた一面が探れればいいなと思う。オペラ史には載っていない話を寄せ集めてまとめられたら、おばちゃんだけでなく、母にとっても何よりの供養になるに違いない。

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コメント

突然、失礼します。私の母が八戸出身で原さんは縁戚であると聞いていますが、それ以上のことはわかりません。母の叔父に八戸をが盤の代議士だった藤井達也(母は姪になります)がおります。その関係かもしれません。わたしも85歳で親戚中で最高齢者なり、聴こうにも誰ももういませ
ん。子や孫に原さんのことを伝えたいとネットで検索してみましたら、このブログを見つけました。原さんのご両親のお名前と、ブログにある、イタリアで結婚されていた方のお名前がわかれば、ご教示いただけないでしょうか。簡単な年譜を作成しようと思っていますので、とりあえずご連絡を差し上げました。

投稿: 小形 徹 | 2019年4月19日 (金) 13時50分

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